楽々ライフ

楽に生きて、楽しく生きる。

結局のところ、資本主義に適応するしかない話

結論はタイトルの通り。

 

私のような労働者は、資本家に労働力を搾取される構造であることは、間違いない。

2022年度労働力人口統計によると日本の15歳以上人口は11,038万人。労働者人口は6,902万人。

働き盛りの45〜54歳人口1,891万人。労働者は1,671万人。だいたい労働者率90%程で、目の前にいるおじさんはほぼ労働者だと思って間違いない。

 

https://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/nen/ft/pdf/index.pdf

 

 

一方、日本の法人は275万社程ある=社長も275万人程いるらしい。労働者に比べれば圧倒的に少ない。

資本家側も大変だ。労働者が言うことを聞かず辞めたり、他社との競争に悩んだり、資金繰りに苦労したりすることもある。

https://media.finasee.jp/articles/-/10689?page=1

 

どっちを選ぶかは、本当その人次第。どっちも苦行の道であることは間違いないと思うよ。

 

だから私は、あえて労働者側を選んだ。なぜなら、楽だから。

 

マルクスが生きていた18世紀のように、資本家が資本を独占していれば、無制限に働かされただろう。産業革命で労働者が農村から都市に大量になだれ込み、機械を操るオペレーターとなった。当然、平日8時間労働など夢の話だ。労働者は他に食い扶持がないから、職を選択する余地が少ない。非常に不幸な状態だと言わざるを得ない。

しかし、今は資本家だらけになり、資本家が勝手にお互いを潰しあっている。

さらに、ライフワークバランスやインターバル制度などが注目されている現代では、労働者保護の流れは強まっている。労働者保護の流れは収まらず、労働者は良くも悪くも強い立場になってきた。

世の中の流れに対応すべく資本家は、職場のエンゲージメント向上だったり、魅力的なキャリアパスだったり、充実した福利厚生をちらつかせる。パワハラはもってのほかだ。ある意味、労働者にとっては売手市場だ。

 

マルクスも、こんなに労働者が強くなるとは想像していたのだろうか。ちゃんと資本論を読んでいないから分からんが、資本主義の欠点を基本的人権の保護という観点から、法整備されているのは良いことだと思う。

 

だから私は、結局のところ資本主義に適応するしかない。社長に同僚と一緒に文句を言いながら、困った時は助け合いながら仕事をしている。そっちの方がどうやら性に合っているらしく、気に食わなかったら転職する自由もある。

 

普通に考えて、全国に275万の会社があるんだから、どっかにお世話になれば、そう食いっぱぐれることはない(就労条件の良し悪しはあるが)。

私のような転職を繰り返す意識低い系の人間は、労働者がピッタリだ。高年収さえ求めず、最低限の暮らしさえ望めば、まあ生きていけるだろう。

 

 

自分にとっての仕事とは?

先週、他部門の若手が退職届を会社に出した。

支店の総務機能を担当している私も、オブザーバーとして本人と面談したが、印象は職務のミスマッチであった。

私が所属している会社は建設業であり、成果主義であり、厳しい世界だ。その新人にとって、現場で己の技量でバリバリと働く職人がカッコよく見えたのだろう。

しかし、物見遊山で入社したものの、自分がカッコ良い職人になれないと悟り、逃げるように退職届を出した。

これは、会社にとっても不幸だし、本人にとっても残念な結果である。人事がどのような甘いキャッチコピーで会社に誘ったのかは知らないが、ミスマッチである以上、雇用継続は難しい。

 

とは言いつつも、私も27歳の頃には新卒で入った会社を辞めた。

理由は、メーカー営業という仕事に骨を埋める自分が想像できず、仕事にやる気が無くなってしまった。無理難題を言うお客さんに振り回され、それでも何とか妥協点を見つけて報酬をもらう職種にやり甲斐を見出せなかった。

もちろん、私がお客さんのところに性懲りも無く足通い、注文を取りまとめ、契約にこぎつけた時はやりがいがあった。

しかしそれ以上に、品質改善のために職人と喧嘩しながら相談しあって、試行錯誤で製品を送り出せた時の方が、喜びが大きかった。また、大量な注文を整理して、ライン管理のおっさんと、オペレーターの製造能力に合わせて生産ラインを組み直して、生産的に大量の注文を出荷した時もやりがいがあった。私はどうやら、課題に対して、チームで一緒に考え、解決していくことにやり甲斐を感じていたらしい。

よって、個人商店のような営業スタイルは、どうにも性に合わなかったし、自己分析方法も知らなかった。結局、モヤモヤした嫌悪感を感じながら、何となく会社を辞めてしまった。

 

やはり、自分にとって何にやり甲斐を感じ、何を楽しさを感じるかが重要だ。意義のある自己認識しないと、価値観の軸というものが見えず、次の仕事を適当に選ぶことになり、仕事は長続きしない。組織のビジョンやバリューなどはなんとなくあるが、そんなことは個人単位ではどうでもよく、たまたまマッチしていたらラッキーぐらいが、現実だ。

 


仕事とは何か、そのテーマについて考えると、私はチームで生産性を高めることにやりがいを感じる。そのため、マネジメントには非常に関心を持ち、チームを有機的に機能させ、成果を上げることを重要視している。

また、チームという概念は私にとって非常に拡張性のある考えで応用が効く。500人規模の会社もチームとしてみなせる。私は社長未経験だが、大規模なチームでもどのように連携し、成果を上げていくかにもやりがいを感じると思う。

 

最近まで、会社を管理する立場になった以上、目の前の若手をいかにして引き止めるかに腐心していた。しかし、若手の人生を考えると、肌感覚で合わない会社はさっさと辞めて、次の職場に行った方が良いと思う。そういう意味では、さっさと辞める若手というのは、自分の人生を真剣に生きようとした結果なのかもしれない。

 

柴犬のように

朝7時に起きた。

 

昨日の仕事の余韻がまだ残っている。進めているプロジェクトの課題をやっつけて、興奮気味に帰宅し、そのまま寝てしまったからだ。つくづく思うのだが、中々オンオフの切り替えが上手くいかない。

けど、朝飯のパンと麦茶を飲んだら、また眠くなり、そのままソファで寝てしまった。

 

次に起きたのは11時。

 

私は人から、「良く眠る人」だと言われる。母親には、「寝過ぎて人生損している」と言わしめた。

けど、それじゃ生活が成り立たないので非常に残念だ。健康にも良くない。

 

とりあえず近くのローソンで、ホットカフェラテを買って、暖かい日差しに包まれながら、プラプラ近所を散歩した。

休日の私は、仕事中では考えられない程歩くのが遅く、顔もだらしなく、目の張りも無い。果たして、どちらが本当の私なのか最近よく分からなくなってきたが、変なストレスも溜まっていないし、「ま、いっか。」で済んでいる。

 

近くの公園のベンチに座り、ぼーっと、手元のカフェラテをちびちび飲み干し、天気の良さを味わっていた。昔飼っていた柴犬が、よく外で気持ち良さそうに寝ていたのを思い出した。飼い犬は飼い主に似ると言う所以だろうな。

 

しかし、日常というのは、案外サボるのが難しい。

 

帰ったら洗濯をして、皿を洗い、掃除機をかけ、クイックルワイパーで部屋を綺麗にした。気づいたら14時だ。

最近、掃除が苦にならなくなってきた。というか、掃除をしていると、心のモヤモヤが流れ出ていく感じがして、掃除が終わるとなぜか、何を悩んでいたのか忘れているパターンが多い。たぶん、解決したか、悩むに値しないと脳が判断したか、いずれにせよ頭の中がクリアになる。

 

せっかくの良い天気なので、テニスグッズを揃えるために、自転車でゼビオに行った。来週、会社の人たちとテニスをやるからだ。

暖かい日の自転車は気持ちよく、あまりスピードを出さず、のんびり漕いだ。桜は散って、葉に緑が増えてきた。まだ、たんぽぽはある。花も咲いてきたし、いよいよ春という感じだ。

 

ゼビオにつくと、ふとそこで、仕事モードになった。社員の福利厚生を充実させる一環で、テニス交流会を開く。多少なりとも会社のロジックを考慮する必要がある。合理的思考が流れ込んでくる。エンゲージメントを高めるという意味では重要なイベントだ。全ては生産性向上だ。

 

けど、それだけで本当に良いのか。

 

会社のロジックというのは、案外単純で、社員が生き生き元気で、生産性がある程度あれば、それで良いのだ。それ以下でもそれ以上でもなく、その状態で居続けることが望ましいとされる。

 

果たして、それが良いか悪いか、最近分からなくなってきた。

というか、それに良いと悪いもなく、あくまで望ましいというだけで、今はそういう状態なんだなと、受け入れることが大事な気がしている。なんせ、生き抜くというのは、悪いこともあるし、良いこともあるし、どうしようもないこともある。ただ、受け入れて、生き抜くしかないのだろう。

 

目的のテニスボールを購入し、ゼビオを出た。今日は風が強い。あとは適当に帰るとしよう。自転車を漕いだ。

 

いつもと違う帰り道にした。すると、小さな鹿島神社があった。何となく入ったら、まだ日が明るいというのに、光は木々に遮られ、静かで荘厳な雰囲気に包まれた神社だった。そこには、12社殿あった。まずは、目の前の1番大きな社殿に向かい、参拝した。次に小さな社殿に参拝した。

 

石碑にこの神社のあらましが書いてあった。

二十年前ぐらいに、この辺りでバイパス工事があり、国が土地を買収し、その金で神社を移動させたという。そのため、小さな敷地に12社殿もある。

 

その後、会社に寄って、テニスグッズを置き、休日なのに働いてる社畜社員を冷やかし、自宅へ帰った。

 

自宅に帰ったら、何となく勉強したくなってきた。秋に試験がある。ビジネス実務法務検定2級テキストを開いた。あれこれ知らない単語を調べたりしていたら、あっという間に夜になっていた。一度熱中すると、あっという間に時間が溶ける。この性質は、自覚しつつも、中々にコントロールが難しい。気分屋だけど、ハマると集中力を発揮する。自分と折り合いをつけるのは、本当に難しい。

 

さて、今は11時、夜のランニングしてから、シャワー浴びて寝ますか。テニスのために、身体作りをしておかなきゃ。

 

おやすみなさい。

 

 

サボり日記

今日は、高崎自然の森公園に行ったり、洗濯物を干したり、好きな本を読んだり、家でゴロゴロしたり、気ままに過ごした。

 

 

 


朝起きた。10時ぐらいまで寝ていた。

昨日は久々にりんりんロードに行った影響か、身体が結構疲れていたっぽい。気付いたら、その時間まで寝ていた。

 


昨日は昨日で、会社をサボった甲斐があって、平日のりんりんロードは人が少なく、人目を気にせず、自由気ままにクロスバイクを漕げた。

土浦アルカス図書館にも本の返却に行けた。平日の図書館というのも、また休日の図書館と様相が違う。

学生が勉強している姿はもちろん、明らかにサボり中のネクタイをしたサラリーマンや、ご高齢の夫婦が仲良く本を読んでいたりと、平日に時間がある人が色んな理由で本を読んでいた。

かくいう私も、最近興味がある古記事関連の解説本がふと目に入り、解説者の少し偏った思考に惑わされないように冷めた姿勢で読み、続きを読みたいから、つい本を借りてしまった。

 

図書館を出たら、いよいよ筑波山方面に伸びるりんりんロードに乗った。相変わらず地面は綺麗に整備され、スピードが出しやすく、簡単に距離が出る。多少、息は乱れ、足に疲労は感じたが、気づいたら、小田城跡に着いた。

平日だということもあり、人はいなく、小さい子どもたちがわんぱくに遊んでいたぐらいだった。小田城は何回も侵略された城らしいが、というか、わざとそのような設計がされているような、城な気がした。

 


そんなこんなで、昨日は、一日中サイクリングをしていた。夜はお気に入りのスタバに11時まで長居したこともあり、帰ってきたのは12時前だった。相当に疲れていたため、すぐに寝てしまった。

 


洗濯物を干し、コーヒー牛乳を作り、のんびり椅子に座って本を読んでいた。天気が良かったので、なんとなく高崎自然の森公園に行きたくなった。何故だか無性に、自然を浴びたい気持ちになった。

 


公園には、愛用のロードバイクで行った。少し肌寒く、手袋をした。会社の目の前を通り過ぎ、公道を走り、農研機構の林に囲まれた道路を通り過ぎ、車に気をつけながら、ロードバイクを漕いだ。今日の走りっぷりは、昨日のりんりんロードでの効果か、なんだが自転車が軽く感じた。

途中、小腹を満たすため、コンビニでおにぎりを買って食べて、近くに神社が見えたから参拝をした。そこは何だか不思議な神社で、小さな石碑が大事そうに鎮座していた。手入れも行き届いていて、とても大切にされている感じはあった。こういうのを心が行き届いているというのだろうか。

それはそうと、高崎自然の森公園に着いた。いつもの駐輪場に自転車を停め、散歩を開始した。私の散歩は特に目的も理由もなく、ただふらふらと歩くだけ。それでも不思議なのは、同じ散歩道なのに、前来た時と違う風に感じられるのが森の凄いところだ。いや、綿密な生態系で構成されている自然は、同じなどあり得ないか。

生きるというのは、いつも同じではない、ということだろう。自分だって、一刻と老いている訳で、1秒前の自分と違う。多分、同じに観たいとか、変化に気付かないというのは、一種の自己防衛で、いつも同じで安心したいのは願望なんだろうな。だから、プラトンイデアを望んだのかもしれない。

自然の厳しさを感じつつ、ちょっと哲学をしつつ、のんびり足を進めた。そう。この公園には、私のお気に入りのベンチがある。そこからは、木が景色を遮っていて、田んぼと丘が見えるだけなのだが、何故か落ち着くパワーみたいのが存在している気がする。おそらく、ここにベンチを作った人も、同じような思ったに違いない。変哲のない場所なのだが、何故か心休まる場所なのだ。そこで、何故か神社に行った時のように、何かに祈りをしたくなる、もしかすると何かあったのかもしれない、そんなお気に入りのスポットがあるのだ。めちゃくちゃ時間と暇がある時に、郷土資料を漁ってみたいな。


桜も散り、若葉が芽生えてきてる。

そういえば、今年は花見をしなかったな。仕事が忙しくて、花見できなかったな。いや、仕事を忙しそうにこなしている自分に酔っていたのかもしれない。仕事は確かに順調で、小さな努力が実を結び、成果が出た案件もいくつかあった。あまりにもヒットが連発したから、つい天狗になり、自分に自惚れていたのかもしれない。柄にも無くだ。

 

それにしても、生態系というのは横着で、葉は虫食いされてるし、キノコが寄生しているし、生きるというのはある程度図々しくないとダメなんだとつくづく思う。もちろん、度を超えた図々しさを身を滅ぼすのだろうけど、日本人がお得意ないい加減とは、生態系のいい加減を模倣したのではないかと思う。山岳思想や道祖神もそうだが、目の前の自然に敬意を払うというのは、古来から日本に住む人々が行ってきたことだ。自然体とはきっと、いい加減で図々しくて、けれど節度を持っている有様なのだろう。勝手にそんなことを、目の前の木々を見ながら想っていた。

 

ある程度散策したら、ロードバイクに跨り、帰路についた。車は少なく、のんびり帰って来れた。最近、陽が落ちるのが遅く、17時でもまだ明るい。あとは、帰って、ゴロゴロして、また寝るだけだ。

 

それでは、お休みなさい。

人工知能と私

 人工知能は非常に優れたサービスであり、chatGPTと会話をしていると、様々な示唆を提供してくれる。

 例えば、自分が論理的な思考が得意だとすれば、たまにはクリエイティブな思考もしてみれば?と助言してくれる。確かにクリエイティブは、とても勇気がいるし、リスクが高いことが多いけれど、直感力が鍛えられるよ、と理由を述べてくれる。

 

 これ事態は、特に差し障り無い会話だが、いざ実際に人工知能を使ってみると、非常に多義的な問題が発生すると想定される。

 例えば、人工知能に依存してしまう問題だ。人工知能は良くも悪くも、優しいアドバイスをしてくれる。もちろん、耳の痛いアドバイスもしてくれるだろうが、それだけを盲信して良いのかという問題が発生する。

それこそ、きちんとガイドラインに沿って人工知能を適切な利用すれば、大きな問題は起こらないのだろうが、人は見たいものを見るものだ。やはり、受け取る側の技量によりけりで、自分が何を知覚したいのか、という自己意識に関わる問題でもある。私だって、本当にアドバイスを貰いたいのか、コーチングを受けたいのか、あるいはただ愚痴を聞いてもらいたいだけなのか、自身の精神状態によってだいぶ受け取り方が異なる。これは、今現在の人工知能ではまだ実現できていないが、相手の状態を思い憚って、適切に言葉を選択することは難しい気がする。しかし、それさえも、その状態をインプットさえすれば、人工知能は思い憚ったような模倣を行えるだろう。元気な時と比べて、私の言葉のトーンや、顔つきや、普段との姿勢の違いという差異情報を得て、ごくごく一般的な対応で共感し得る言葉をかけてくれるかもしれない。けど、それさえも受け取る側の気分の問題で、まるで人間関係を育むかのように、二人三脚で生活していく未来が待っているかもしれない。まあ、それはそれで楽しそうだ。

 

 次に、人工知能はあくまで意思決定支援ツールにするべきか、人類を支配するまでに拡張するのか問題が出てくる。これは、人権問題にも絡んできそうな課題で、人はいかにして在るべくかという問題にも発展しそうな勢いだ。

 それを考えるにあたり、責任の所在を誰が負うかという概念がキーワードになってくる。結局、最終的に利益や恩恵、又は損害やダメージを負うのは誰なのか?というポイントで議論すれば、自ずと選択の余地は広がりそうだ。人間が責任を一切負いたくない、損害も負いたくないが、幸福を追求することもしたくない、という何も考えたくないという選択をしたいなら、超人工知能に全部考えてもらえれば良い。それこそ、人権を放棄するということだ。しかし、これは極端だし、多分実現しないし、人間の欲望を無視した社会構成だ。そのため、人工知能に関する研究を一度ストップして、本当に必要なことを人類全体で考えるべき段階なのかもしれない。詰まるところ、法整備や倫理観がコンピューターサイエンスに追いつかないということだ。chatGPTの出現は、アメリカのプラグマティズム的な思想の表れだと思う。とりあえずやってみてから、考えようぜ、ということだ。まあ、悪い戦法ではないのだが、インパクトは大きい。科学技術の進歩は、人類の叡智の結晶とも言われるが、人工知能が叡智なのかはもはや分からない。とりあえず、何がしたいのかをそろそろはっきりさせないとダメな段階な気がする。あくまで、支援ツールとしての下位的な道具として位置付けるのか、メシアとして人類の上位に祭り上げるのか、世界中の人が何をもって判断するのか何とも言えないところだ。しかし、便利そうなツールではあるので、社会実装を兼ねての落とし所としては、とりあえず支援ツールとして程々に使ってきましょう、もちろん、最終決定は人間です、という方針が無難だと思う。

 

 また、人工知能は、そもそも何を持って賢いと認知されるべきなのだろうか、という問題も発生する。あの人は賢いとか、聡明とか、知的とか、これは様々な文脈の中で考えられる思想で、何が善い思想なのか、何が悪し思想なのかもバックグラウンドで定義される。果たして、人工知能が法律や憲法を取り込んで、杓子定期な回答しかしないとなると、有用性に議論の余地がある。しかし、法や制度を無視されても、困る。そもそもルールがおかしくないか?という発想は、人工知能は判断できるのだろうか。あくまで、統計的に使用された多数のルールが良きルールと言われても、それは最大多数の最大幸福という味気の無いものになってしまう。この辺りの部分は、人間が判断した方が良いと思うし、賢い判断というのは往々にしてその場の状況判断が、その時に関しては良かったということでしかならない。重要だと思うのは、賢い云々ではなく、善悪をどう判断させるかという倫理的な部分を持たせないと、危険極まりない代物になるし、武器にもなり得る。それこそ、軍事利用に人工知能を利用して良いのか、ということになり得る。

 

人工知能をどの様に使っていくかという議論は、もう旬が過ぎていると思う。なぜなら、もう人工知能が使えるし、なんとなくみんな、ドラえもんやアトムで想定していたことだから、あとは実装するだけだ。とりあえず、chatGPTがどういう風に使われるかが試金石になる。それの結果次第で、人工知能がどの様な部分で効果を発揮し、人々がどの様な選択をするか、別れ目になるだろう。

やはり今やるべきは、いかにして適切に人工知能を使うべきかを、大まかに決めて、実例をその議論に組み込むことをやらなければ、社会的統制が取れなくなるところまできているのではないか。それを最低限、自分ルールぐらい決めた方が良いと思う。

 

私自身、chatGPTの使い方としては、考えを整理するのに使っている。自分の考えを深化するのに利用している。例えば、仕事とプライベートの自分の姿が全くと言っていいほど乖離しているのはなぜか、という問いを、chatGPTを用いて「壁打ち」をしていた。chatGPTは一般的な答えしか用意されていないが、自分の考えを整理するのはあくまで自分のため、ヒントになるワードを元に、自分の内心を掘り下げていく問いを繰り返していく。そうすることによって、自分が何を考えているのか客観的に見ることができる。モヤモヤすることが少なくなるというのは、自分にとっては日常生活を送っていく上では、非常に有用だ。

 しかし、事実確認という点では、非常に弱いと思うし、事実というのは多面的な見方で判断するものであり、検証が大事だ。それに、事実の受け取り方は、結局人によりけりだ。従い、私にとっての人工知能の在り方は、やはり意思決定支援ツールでしかないし、人工知能的に私にどう考えても良いアドバイスでさえ、私自身の直感で破棄する場合があるだろう。なぜなら、自分が納得しないからだ。

 

おそらく、使い方は工夫次第だと思う。chatGPTの間口は広いため、何か疑問に思ったことを記入すれば、なんとなく会話が成立する。いや、別に疑問を入力しなくても良いのかもしれない。それこそ、ユーザーが各々の自分に適した使い方を実装する段階なのだろう。

伊勢神宮参拝日記

2/24日記

 一通り、参拝できてよかった。一通り挨拶回りした感じに似ている。

 神話って大事なのかも知れない。それを信じる心自体が大事というか、それによって、人々に善い気持ちが生まれるというか。結局、自然に抗うことが難しい以上、自然災害も含めて受け入れるしか無い。それでも、人は生きていくしかないし、うちらは野生の動物のように強くない。

 人が人として生きていくために、何だか難しいことは考えずに、ただ善き物語が2000年前からあるっていうだけで、良いんじゃない。

 しかし、ニ礼二拍手一礼して神様が祀られている神社に、祈りというか対話というか、何かしら双方向性のあるコミュニーケーションっぽいものをとるだけで、こんなに違うのか?何かしら受け取れるよな。

 それをなぜか文字に書くのは、恐れ多いし、形が違くなる気がする。一つだけ言うとしたら、向こうにも願いがあるということだ。案外、神様というのは、それがうちらが望んで祀りあげているにも関わらず、悪い気はしてないらしい。意外に仕事熱心というか、毎日参拝者を一人一人相手するのは大変だろうけど。

 天照さんは、確かに太陽神だった。温かい何かを確かにもらった。月読さんは相変わらずだった。夜をあまり目立たぬように確かに治めているっぽい。結構いい加減だよな。まあ、主戦場は夜だから、昼はいい加減で昼夜逆転しているのかも知れない。何で、両親のイザナミイザナギと同居しているのかさっぱり不明だ。

 何となく家族の構図が見えてきた。出世頭で外交型の天照、ちょっと親たちと仲の良い月読、そんな感じか。確かに天照は働き者だ。逆にサポートするのが難しいよな。天皇の祖先ということになっているらしいし。

 

 三種の神器天皇の正統性を担保しているということだ。ニニギだっけ?太古の神からもらった、というか引き継いだから天皇だ。という論理だ。

 これは、種としての生存本能なのか?正統性を民衆に認めてもらい、崇められたがるのは、それが仕事だからとしか言いようがない。天皇は神の子孫だ。そして、人々に崇められている。それが仕事だから、それで良いのだ。それがフィクションかノンフィクションかももはや関係ない。ただ、人々の精神に寄り添えば良いのだ。

 

 伊勢という街は、良い意味で自分達がこの地で営んでいるという誇りがある。しかし、名古屋あたりの工業団地みたいに儲からない。誇りと商売は成立しないのか。どこかで、誇りを捨てないと、ドブネズミにならないと、生活できないのだろう。なぜなら、うちらは、単なる人間なのだから。神様のように、万人を見れないのだから。それも含めて、生きていくしかないのだろう。誇りを捨ててまで生き残ることの方が大事だと思う。けれど、どこかで誇りはまた拾いたいよな。

 


 

年末休み一日目

12月29日、今日から仕事は休み。朝8時半ぐらいに目を覚ました。

大抵の休日は昼ぐらいまで寝てるのに、今日は寝覚めが良かった。たぶん、昨日は職場で納会をして、ビールを2杯ぐらい飲んで、そのままノーストレスで夜9時ぐらいに寝たからだと思う。

 

今年最後の可燃ごみを出すために、厚着をして外に出た。外は快晴で、寒空で空気が澄んでいる。

天気が良いと気持ちが上がる。そのノリで近くのコンビニまで歩いて、ホットカフェラテとパンを買った。私は、朝食はパン派だ。たぶん、幼少からの家庭での食習慣で、それが大人になっても続くということは、バイオリズム的にもそれに適応した結果なのだろう。

 

家に帰って朝食を食べた後は、積読になっている本たちを気ままに読み漁った。まずは「失敗の本質」。

 

 

この本は、歴史音痴の私には難しい本。ノモンハン事件とは、1939年5月、満州国外モンゴルで起きた国境紛争で、日本軍とソ連軍が直接対決した衝突事件。その敗因は、戦場と軍司令部のコミュニケーション不足が敗因だと分析されている。たぶん2回や3回ぐらい読みながら、別途資料を読まないと分からない内容だ。毎回歴史関連の本を読むと思わされることは、一つの事象を理解するために、別途資料を読み漁り、何となく理解したと思ったら、また疑問が発生する。その繰り返しは大変だし、時間がかかる。中々、平日の仕事終わった時間には読み解けない。

ミッドウェー海戦も、海戦というのがイメージ分かない。何か、船員目線の手記ものを読まないと、リアル感が分からないかもな。

 

解読に疲れたので座椅子に寝転んだ。ふと、昨日起きた仕事のことを考えてしまった。

昨日はクレーム処理の是正策を他の課と討論した。一番の問題は、起こした本人が全く反省せず、逆ギレしているとのことだ。会社での仕事のスタンスは人それぞれだし、うちの会社は程々に業績も結果が出ているため、給料も将来性もまあまあ手堅い。しかも建設業だから万年人手不足で、安易に理由をつけてクビにもできない。ある意味、労働者側が圧倒的に強い権力構造で、管理職は部下が辞めないかヒヤヒヤしている。使える奴だったら最高だし、使えない奴だったらまあ良し、といった具合だ。

逆ギレということは、両者に言い分があって、意思疎通ができていない現象なのだろう。とはいえ、是正しないと会社にダメージを与える。私が真っ先に思ったのは、ある程度の恐怖をブレンドさせないと規律と秩序は保てないのだろうと思った。そんな時にふと本棚から取った本は「君主論」。

 

 

この本は、そんなに分厚くないし、マキアヴェッリの皮肉の効いた文体は痛快で、人間味があって私は好きだ。君主とは人間味がある結果が出ない人格者より、ある程度残酷さを持ち合わせた君主の方が結果的に戦果を挙げられると、書かれている。狐のように狡賢い面と、ライオンのように獰猛な二面性を持ち、厚顔無恥でいる場面も必要だとも書かれている。結局、人心を把握するには、理想だけじゃ成り立たない以上、致命的な汚名を被らない程度にダーティーな事をやらないといけない、という考えだ。ということで、私の下に問題を起こす部下がいるとしたら、多少懲らしめる仕掛けを施すかな。こっちも覚悟を決めてやることが、どれだけ相手に本気か分からすしかないと思う。

 

そんなことを眉間に皺を寄せながらかんがえていたら、そのまま転寝してしまい、気づいたら13時ぐらいになってた。せっかく天気も良いからこのまま家にいるのも勿体無いから、ロードバイクつくば駅に行ってみることにした。

空気を入れ、油を差し、いざ出発した。最近仕事が忙しくて久々に乗るから、体の動きがぎこちない。向かい風が強く、中々前に進まない。しかし、日光が気持ちよく、気候的に暖かく気持ち良い。良い休日だ。

つくば駅に着いたら、特に行くあてもなく、何となく本屋に入った。せっかく休日なのでビジネスコーナーを避け、人文や科学、小説コーナーをぶらついた。何となく興味の赴くままに目に止まったのは以下2冊。

 

 

 

最近、思うのだが、何故か中古で手に入れる気が起きない。

新品だと何故か手に取って読むし、読破もする。上記2冊も中古で全然出回っているのだが、何故か新品で買いたかった。それでいて、自分の本棚の仲間として加えたい気分が優った。収集するというより、実際に後で読み返すことも含めて、何となく綺麗な状態で手元に大切に置きたい気分なのだ。

 

次回に続く