楽々ライフ

楽に生きて、楽しく生きる。

改めて、マネージャーの仕事とは

マネジメントは綺麗な仕事に聞こえるが、そんなことは無い。

このことが分かっただけでも、一歩前進な気がする。

 

色々調べた結果、マネジメントはチームが成果を上げるために必要だ、ということは確定だ。

【部下育成マネジメント】優秀な人材が育つ目標設定のコツ【元リクルート役員が管理職の悩みをズバッと解決】 - YouTube

 

マネジメントが無ければ、組織は明後日の方向に行き、成果を出すことはできない。

そもそも、目的があるから組織があるのだ。

個人で達成できる目標があり、それを遂行することにより目的を達成できるのであれば、組織は不要だ。

しかし、誰かの力を借りなきゃ達成できない目的が発生し、協力して仕事を進める必要がある地点で、マネジメントは必須だ。

 

インプットに対してのアウトプットは何かを定義することも生易しくない。私たちのようなコーポレート部門は、非営利組織で予算制で成立しているから、利益目標を持って成果と言えない。もちろん、コストダウンは一つの目標だが、そもそもの存在意義がブレてはいけない。

この問いの逃げ道は、我々はコスト部門だから、現場より下ですと、自らを負け犬に設定することだ。同僚と話していると、この発想は良く聞く。これは、思考停止もそうだが、定義付けが困難だから産まれる発想だと思う。

改めてコーポレート部門のアウトプットから考えると、組織の統制を取るとか、実態に即した会計処理をするとか、会社の資産を有効活用する、とかになると思う。

それを達成するためのインプットは、法律であり、人であり、金であり、資産である。これらを有効活用し、上記のアウトプットを出す、というのがコーポレート部門の役割だと、私は思う。

 

このインプットの中で、コーポレート機能が最も働く資源は、人である。

法律や金や資産は、ただのモノで、それらをどう活用するかは人が重要だ。

 

この現実がマネジメントを困難している。人と人がお互いを理解し合いながら仕事をする、というシンプルな目標が、マネジメントをするにあたり最難関なタスクの一つであることは間違いない。

だから、私のようなマネージャーにできることは、メンバーと歩調を合わせ痛みや喜びを分かち合い、一緒に働くことが大切だ。それがマネジメントの大きな仕事の一つだ。真摯になる、という言葉はいまだに実感できないが、目の前の現実と向き合う以外に方法は無いということだ。

 

また、これは私の所感だが、マネジメントの仕事は今まで、人間性の一言で片付けられていた気がする。

だが、最近はメソッドも明らかになり始めているため、それは勉強すれば後天的に身につけらると思う。というより、昔の武将とか賢い人間は分かっていたのだろう。それが神から与えられたギフトの如く扱われていたから、人間性という先天的な素質が無いとダメだ、という話に発展したのではないか。

相手の話を否定しないは最たる手法で、これを行うと心理的安全性が損なわれる原因になる。メンバーに考えさせることが大事で、それが仕事に対しての主体的な取り組み、改善につながる、というごく当たり前な話がエビデンスを持って語られてきている。

そのうち義務教育レベルでマネジメントが教育され、全国民誰もがマネージャーになれる社会が到来するかもしれない。これからは、まるで千里眼を有した深い考えを持った若者が増えてくるかもしれない。なぜなら、それは全て体系的に学習できるからだ。そもそも、なんでそんなことも知らないのと、呆れる世代が出てくるかもしれない。

 

マネージャーのブルマンデー克服法 

はー・・・

明日は月曜日、仕事です。

連休は家でゆっくりしたり、東京近代美術館でリヒター展に行ったり、楽しかったな。

ゲルハルト・リヒター展

 

ドイツ・ドレスデン出身の現代アートの巨匠、ゲルハルト・リヒター。日本では16年ぶり、東京では初めて、美術館で開催されたらしい。

 

正直、全く知らない人だったけど、ナチスドイツ時代に起きた悲しみや怒りを表現しているような気がした。戦争を経験しているからこそ、平和と笑顔を愛し、アートとして表現している。そのような表現を後世に伝えるんだ!という意気込みと責任感も感じた。

私も働く一私人として、一応社会的責任を負い、最近はチームメンバーのマネジメントに四苦八苦しながら、働き甲斐のある職場にするべく仕事に没頭している。IT化によるコストダウンの波は厄介であり、コーポレート部門の予算である一般管理費を人件費ごと削り、費用を下げる施策は合理的だ。私はこの安直な流れが大嫌いで、何とか予算を削られないようにチームをマネジメントするのが使命だと思っている。休日にドラッガーの難解な著書を読み、「もしドラ」で知識として落とし込んでいる感じだ。

 

 

とりあえずインプットし、あとは実践あるのみで、成果を出すだけだ。一応、そのための戦略を考えてチームメンバーにプレゼンしてみるが、どういう反応が返ってくるかは物凄く不安である。

 

 

今、このブログを書いている地点でも、刻々とブルマンデーは近づいてくる。

私なりの克服法はこうやって、明日からの地獄をブログを書くなり、文章を書くなりして感情と思考を整理して、実現可能そうな戦略を考えることだ。

そうすることで、少しは気分が落ち着き、休日のハッピーな時間から、地獄の平日用の臨戦モードに切り替わるのだ。どうせ明日から地獄なら、メソメソと暖かい布団の中に引き篭もるより、向き合うべきクソみたいな現実と正面から向き合ったほうが、メンタルバランスがとりやすい。今日の睡眠は、明日のための英気を養うための休息で、これから入る風呂は、今日の疲れを癒すためのヒーリングだ。

 

平日が地獄に感じるという概念は令和っぽくないが、ニート願望のある私にとっては働くことが苦痛以外の何者でもない。

10億円当たったら、速攻で会社辞めて、平家の庭付き一軒家を買い、ハンモックで日向ぼっこしながら本を読み、美味しい食材で作った料理を食べて、夜はビルエヴァンスをレコードで聴きながら、白ワインを嗜みたい。

 

しかし、ハイリスクを負わなければ、金は手に入らない。そこが自分の本性で、私は実に肝の小さい男で、結局会社員として苦痛に耐えることが一番の安定だと選択してしまった。

つまり、マネタイズするための初期投資のリスクを追わず、会社員として働くというローリスクローリターンを選んだということだ。

従って、資産が無い私の生き残り戦略は、地道に働き、価値を提供できる人間になる、という地味で堅実な戦略を取っている。売り物は自分以外無いということだ。

ちょっと、考えものだ。

 

なぜ、つくばは人気が無いのか

昨日、東京支店の同僚たちと東京駅で飲んだ。

私は、TXでつくば駅から秋葉原駅まで1時間ぐらいかけて、東京観光も兼ねて入った。いつも東京きて思うのは、東京は人が多過ぎるし、しかも誰1人として知っている人はいない。大手町の高層ビルは意味あるのか?というぐらい大きい。オープンカフェには、エルメスのバックやアルマーニを着こなした人たちで溢れかえり、楽しそうにおしゃれに喋っている。ヒト、モノ、カネ、情報が常に最先端に集まっている。確かに、東京は魅力的だ。

しかし、私にとってつくばも魅力的だ。自然は計画的に残され生活と調和し、空気は美味しいし、人口密度も高くない。確かに車社会で、気軽に移動できるとは言い難いが、ロードバイクやシェアカー、バスである程度移動できる。イオンもあるから、生活にも困ることはない。

どっちが上とかいう議論は意味ないと思うが、単に地域の歴史や環境が違うだけの話で、東京とつくばはどちらも特徴がある、というだけだと思っている。

しかし、東京の同僚と冗談で、次に転勤するとしたらどこが良いと訊いた時、仙台や名古屋は候補に上がるが、つくばは全く推されなかった。やはり、パブリックなイメージが無いから想像しにくいのか。それとも、地方都市の方が単に魅力的だという話なのか。

いずれにせよ、何が問題でつくばは人気が無いのかさっぱり分からない。TX沿いは年々地価が上がっているから、需要としては増加傾向なはずだ。つまり、魅力を知って移住してくる人も一定多数いるのだろう。しかも、研究学園駅近くのベンツやアウディーといった高級車はわりかし売れていると聞く。富裕層に人気があるということなのだろうか。

茨城は一応、体験王国というキャッチフレーズで観光アピールしているが、つまりこれは、金沢のように対外的にアピールするモノが乏しいから、とりあえず来ればハマるよ、というコト戦法で呼び寄せようとしているのだろう。けれど、とりあえず来いは非常に厳しい。なんで来たらわかると言うのなら、口で説明できないか、という違和感は持たれる。つまり、語り部がいないから上手く魅力が伝わらないのか。

そもそも、茨城はそこまで観光アピールしていないというか、そんなにウェルカムではぶっちゃけ無い。地元民は皆、何も無いからつまらないよねとよそ者に謙遜した口ぶりで話すが、実のところ、住みやすくて良いところなので、あまり移住してこないで、というのを間接的に言っている節はある。だから、来ればわかるみたいなアピールしかできないのだろう。

兎にも角にも、私はつくばを良いとこだと思っているし、永住地候補に挙げている。この土地で生涯を過ごすのは悪くないと思っている。

確かに、対外的に見ればつくばというのは、野暮ったくて、閉鎖的で、トレンドに疎い節はあるかもしれないが、良いところなのは間違いない。やはり東京の同僚にも、有無を言わせずパワハラで連行して、魅力を感じてもらうのが一番なのか。

何のために生きるのか?

別に私は深い信仰心を持っているわけでもない。

近所の神社にお参りした時、手を合わせてその時に思ったことを祈るぐらいはするが、人外なパワーが働いて自分を救ってくれるとは1mmも思っていない。行動こそが全てだと思っている。

だけど、たまに仕事がめちゃくちゃ忙しかったり、プライベートでショッキングな出来事に会った時、私は何のために生きているのだろう、とよく思う。もちろんこの感情は、凹んだメンタルを回復するための処方箋的な効果しかない。しかも、思考プロセスは違うけど、毎回辿り着く答えは一緒という、側から見たら生産性の欠片もない問いなのだ。

その答えは、「生きていることに意味など無い」だ。

ぱっと聞いた感じ、まるで用無し人間への最終通告に聞こえるが、それとは全く違う。もっと単純なことで、生命体は生きているようにそもそもプログラミングされているから、意味など付与されていないということだ。なぜなら、そういう仕組みだから、という思想的な含みが一切無い無機質な発想だ。

だから、何のために生きるのかと聞かれたら、「何のためにも生きません。ただ、生きているだけです。」としか私は答えようがないのだ。これをもっと、立派に聞こえようとしたら、「生きることに意味がある。」とかになるのかな?それでも私のニュアンスとは離れているが、かすらないわけでも無い。

私が言おうとしているのは、システムで死を回避するように人間は組み込まれているし、最低限安全に生きるというのは、衣食住があることだ。それを手に入れる簡単な手段が、金を得ることだ。だから私の場合、苦しんで死にたくないから、健康に安全に生きることが生きる意味だと思う。

 

Q.何のために生きるか?

A.苦しんで死にたくないから生きる。

 

苦しんで死なないためには、適職に合って金を得ることは大事だし、不健康も大敵だ。この二つを得ることは、かなり神経を使って維持しなければならない。私が最大限に気を遣っている部分だ。それが、私の根幹だ。

捉え方によっては、自分さえ良ければどうでも良いとも言える。社会的に見れば、自分のことしか考えていない市民だ。しかし、仕事は社会に生きている人間に価値を提供することだから、自分のことしか考えてないけど、仕事を一生懸命にやれば、図らずとも人のためになると思う。実際、今の私はかなり仕事熱心で、スポーツで言うゾーンに入ってると思う。自分で言うのも何だが、人生においてめちゃくちゃ働く時期な気がする。とりあえず、熱心に働いてさえいれば、苦しまずに死ぬことを回避できそうだから、今日も気張って生きているのだ。

 

 

字を書くことの大切さ

別に私は書道家ではない。

けど、最近iPadApple pencilを買って、タブレット上に字を書いている。自分の書いたものをiPadに集約して、見返し易くするのが目的だ。そこで感じるのが、一字一字が重いのだ。

仕事では、用件を素早くキーボードで打つ。単なる記号レベルの情報、例えば見積書、注文書、領収書は、早く作成した方が良い。

けれど、日誌や報告書、アイデアは、キーボードで素早く文章を書がない方が良い気がしてきた。言霊という言葉がある通り、長い文章より、厳選されて精緻な文字達の方が、実質的な気さえしてきた。

私は、たまに早口すぎて自分でも何を喋っているのか分からない時がある。キーボード脳なんだろう。その時に思うのが、短い言葉で伝えたほうが、相手と濃密なコミュニケーションを取れるのではないかと内省する。

字を選定して表現したいことを書くことと、短い会話で濃密なコミュニケーションを取ることは、似ている気がする。その方が、ノイズよいに漂うテキストより、一字一字気合いの入ったコミュニケーションの方が良いのでは?

 

自分にできること2

前回、自分にできることを自分なりに考えたり、上司に愚痴ったりして、ぐちゃぐちゃでドロドロな感じで考えをまとめた。

 

それを課員に発表してみた。

俺「課のビジョンはこれです!」

課員「・・・」

俺「ど、どうでしょうか?」

課員「・・・」

上司「ま、まあビジョンがあるのはいい

ことだけど、少し内容が多いかな?」

俺「そ、そうですか・・・」

課員「・・・」

 

かなり凹んだ。

このビジョンにはかなりの工数をかけて、一字一句慎重に言葉を選んだ。具体的になりすぎるのもいかんし、抽象的すぎても意味がわからない。だから、自分の知識と感覚を総動員して作った。

しかし、ビジネスは結果が全て。ダメなものはダメだ。その日は定時で帰って、布団にダイブして、ふて寝した。

次の日、上司と一対一の面談があった。俺は怒られるのだろうと思ったが、意外な反応が返ってきた。

上司「まあ、たくさんビジョンがあると絵に描いた餅になっちゃう。君が1番何をやりたい?」

俺「これです」

上司「じゃあ、それをできるように頑張ろうか」

正直、この人には叶わないな、と思った。彼は、俺のやりたいことの真意と、今の状況をたった一晩で考え、俺にコーチングをしてきた。これが年収1000万円プレイヤーの実力か、と感嘆した。

 

結局、3歩進んで2歩下がったものの、方向性は朧げながらみえてきた。新しいことをやると言うのは、血肉を削る思いだし、反発もされるし、無視もされる。正直、馴れ合いな仕事で食ってけるなら、そうしたい。

とにかく、自分のクビをかけるぐらい動くしかない。新しいことをやるにあたり結果を出すには、トライアンドエラーでやるしかない。投げ出さない覚悟が必要だ。腹を括ろう。

 

 

 

 

自分にできること

今日は柄にもなく、課のリーダーとしてのビジョンを考えていた。

朝からずっと考えていたため、脳みそがパンクしそうだ。孫正義風に言えば「脳がちぎれるまで考えろ」だ。本屋でビジョナリーカンパニーを立ち読みしたり、考え疲れたらプールで泳いでリフレッシュしてみたり、そんな無計画な1日だった。

 

そもそも、何で自分は働いているのか。

金や生活のために働いていることは間違いないのだが、それだけじゃない気がする。

安定を求めていたら前職の大学職員でも良かった。しかし、保守的な風土にうんざりして辞めた。ある程度の自己成長とやり甲斐がないと、私は辞めちゃうらしい。

 

つまり今の職場は、やりがいも多少あり、程々な仕事量で、自己成長も期待できるということだ。その中でも自己成長については、目下マネジメントを習得中で、まあまあやる気はある。

改めて私が働く理由を考えると、条件がいくつかあることがわかる。最低限、給料がそこそこで、自己成長が期待でき、会社への貢献が実感できればいいらしい。そこに付随して、職場で出会う人に恵まれたり、気づきがあったりがあれば尚良い。

やはり人によっては働き方の優先順位があると思うし、みんなが私と同じことを考えている訳ではない。自己成長だって、学習という努力が嫌だったら作業員を望む人もいる。よくよくその人を観察すると、実家が裕福でいつ辞めても帰れる実家がある。立派な有形・無形資産であることには変わりはないし、維持に多少なりとも気を遣っていることは偉いと思う。少しのバックグラウンドの違いで働き方は変わる。

マネージャーという職種は面倒でプレッシャーもあるが、いい加減この職種を天命として受け入れることにした。食ってくためにはこのミッションを遂行しなければならないと、腹を括るしかない。諦めが肝心だ。

課員の働きがいを把握し、適切な仕事を与え、のびのび働いてもらうことだ。何度も言うが、私みたいな自己中人間がやる仕事ではない。しかし、職を失えば死ぬかもしれないという状況なので、食いっぱぐれないためにもミッションコンプリートしてやる。

 

そのおかげで、なんとなくだが方向性は見えてきた。基本的なリーダーの態度として、まず私が率先してやらきゃ、というの当たり前なことに気が付いた。指示だけ飛ばすリーダーではいかん。だから、まずは自分が腹落ちするビジョンじゃないといけないし、自分がリーダー権限を使って実行したいことをやらなくちゃいけない。

大枠のビジョンがあって、その下に5つぐらい具体的な行動指針を作った。これを課員に伝えてどういう反応が返ってくるかだ。そこが一番ビビっていることだが、やけくそ精神で熱く語るしかない。これは、自分がこういう組織にしたいという個人的な感情が入っているから、自然に熱は出るはず。そこに期待して情熱が伝われば良いな。

発表する日はまだ決まっていないし、特に締切があるわけではないが、見計らう必要はあると思う。これは、ある程度策略が必要だ。私もそうだが、気持ちに余裕がある時じゃないと新しい概念にインプットは難しい。ので、少し課員に余裕がある時に発表したい。