楽々ライフ

楽に生きて、楽しく生きる。

何のために生きるのか?

別に私は深い信仰心を持っているわけでもない。

近所の神社にお参りした時、手を合わせてその時に思ったことを祈るぐらいはするが、人外なパワーが働いて自分を救ってくれるとは1mmも思っていない。行動こそが全てだと思っている。

だけど、たまに仕事がめちゃくちゃ忙しかったり、プライベートでショッキングな出来事に会った時、私は何のために生きているのだろう、とよく思う。もちろんこの感情は、凹んだメンタルを回復するための処方箋的な効果しかない。しかも、思考プロセスは違うけど、毎回辿り着く答えは一緒という、側から見たら生産性の欠片もない問いなのだ。

その答えは、「生きていることに意味など無い」だ。

ぱっと聞いた感じ、まるで用無し人間への最終通告に聞こえるが、それとは全く違う。もっと単純なことで、生命体は生きているようにそもそもプログラミングされているから、意味など付与されていないということだ。なぜなら、そういう仕組みだから、という思想的な含みが一切無い無機質な発想だ。

だから、何のために生きるのかと聞かれたら、「何のためにも生きません。ただ、生きているだけです。」としか私は答えようがないのだ。これをもっと、立派に聞こえようとしたら、「生きることに意味がある。」とかになるのかな?それでも私のニュアンスとは離れているが、かすらないわけでも無い。

私が言おうとしているのは、システムで死を回避するように人間は組み込まれているし、最低限安全に生きるというのは、衣食住があることだ。それを手に入れる簡単な手段が、金を得ることだ。だから私の場合、苦しんで死にたくないから、健康に安全に生きることが生きる意味だと思う。

 

Q.何のために生きるか?

A.苦しんで死にたくないから生きる。

 

苦しんで死なないためには、適職に合って金を得ることは大事だし、不健康も大敵だ。この二つを得ることは、かなり神経を使って維持しなければならない。私が最大限に気を遣っている部分だ。それが、私の根幹だ。

捉え方によっては、自分さえ良ければどうでも良いとも言える。社会的に見れば、自分のことしか考えていない市民だ。しかし、仕事は社会に生きている人間に価値を提供することだから、自分のことしか考えてないけど、仕事を一生懸命にやれば、図らずとも人のためになると思う。実際、今の私はかなり仕事熱心で、スポーツで言うゾーンに入ってると思う。自分で言うのも何だが、人生においてめちゃくちゃ働く時期な気がする。とりあえず、熱心に働いてさえいれば、苦しまずに死ぬことを回避できそうだから、今日も気張って生きているのだ。