楽々ライフ

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伊勢神宮参拝日記

2/24日記

 一通り、参拝できてよかった。一通り挨拶回りした感じに似ている。

 神話って大事なのかも知れない。それを信じる心自体が大事というか、それによって、人々に善い気持ちが生まれるというか。結局、自然に抗うことが難しい以上、自然災害も含めて受け入れるしか無い。それでも、人は生きていくしかないし、うちらは野生の動物のように強くない。

 人が人として生きていくために、何だか難しいことは考えずに、ただ善き物語が2000年前からあるっていうだけで、良いんじゃない。

 しかし、ニ礼二拍手一礼して神様が祀られている神社に、祈りというか対話というか、何かしら双方向性のあるコミュニーケーションっぽいものをとるだけで、こんなに違うのか?何かしら受け取れるよな。

 それをなぜか文字に書くのは、恐れ多いし、形が違くなる気がする。一つだけ言うとしたら、向こうにも願いがあるということだ。案外、神様というのは、それがうちらが望んで祀りあげているにも関わらず、悪い気はしてないらしい。意外に仕事熱心というか、毎日参拝者を一人一人相手するのは大変だろうけど。

 天照さんは、確かに太陽神だった。温かい何かを確かにもらった。月読さんは相変わらずだった。夜をあまり目立たぬように確かに治めているっぽい。結構いい加減だよな。まあ、主戦場は夜だから、昼はいい加減で昼夜逆転しているのかも知れない。何で、両親のイザナミイザナギと同居しているのかさっぱり不明だ。

 何となく家族の構図が見えてきた。出世頭で外交型の天照、ちょっと親たちと仲の良い月読、そんな感じか。確かに天照は働き者だ。逆にサポートするのが難しいよな。天皇の祖先ということになっているらしいし。

 

 三種の神器天皇の正統性を担保しているということだ。ニニギだっけ?太古の神からもらった、というか引き継いだから天皇だ。という論理だ。

 これは、種としての生存本能なのか?正統性を民衆に認めてもらい、崇められたがるのは、それが仕事だからとしか言いようがない。天皇は神の子孫だ。そして、人々に崇められている。それが仕事だから、それで良いのだ。それがフィクションかノンフィクションかももはや関係ない。ただ、人々の精神に寄り添えば良いのだ。

 

 伊勢という街は、良い意味で自分達がこの地で営んでいるという誇りがある。しかし、名古屋あたりの工業団地みたいに儲からない。誇りと商売は成立しないのか。どこかで、誇りを捨てないと、ドブネズミにならないと、生活できないのだろう。なぜなら、うちらは、単なる人間なのだから。神様のように、万人を見れないのだから。それも含めて、生きていくしかないのだろう。誇りを捨ててまで生き残ることの方が大事だと思う。けれど、どこかで誇りはまた拾いたいよな。